群馬県からの視察団を受け入れ〜浪江町津島地区を案内(2023.9.30)

9月30日、群馬県から視察団が大型バスに45人を乗せ福島視察に訪れ、「福島原発事故被害から健康と暮しを守る会」として視察を受け入れました。(「守る会」からは紺野則夫会長、以下佐藤龍彦、佐藤晴夫、振津かつみが対応。)

視察は浪江町津島地区が主でした。津島地区では、帰還困難地域の一部が「特定復興拠点地域」として避難解除され、浪江町役場支所や復興住宅が設置されています。しかし、「復旧・復興」には程遠く、住民の帰還は僅か。

津島に自宅のある石井ひろみさん(福島原発事故津島被害者原告団・副団長)に案内をお願いしました。石井さんは、朽ち果てた自宅の屋敷に視察団を招き入れて説明してくださいました。

石井ひろみさんが夫とともに避難したのは2011年3月15日。その後、親戚宅、避難所、アパート、中古住宅など、7回避難先を転々とし、今は福島市内に住宅を購入し家族4人で暮らしています。ひろみさんが嫁いだ家は築150年の旧家、当主は18代目だそうです。見るからに厳かな大きな家です。国道114号に面した家の側にバスを停め、視察者は準備された「足カバー」を両足靴に被せ、家に案内されて入りました。

土間はぬかるみ、上り框(かまち)の土台は腐り、竈(かまど)は崩れていました。ひろみさんは、この家に嫁ぎ、竈に火を起こすことから始まる毎日の生活の中で、津島が次第に自分の故郷になってきた…と話されました。視察者は、神棚のある24畳の大部屋に集まって、ひろみさんの話しに聞き入りました。伝統芸能の田植え踊りが、この部屋で最初に踊られ出発していったこと、「結の里」であったことなど。また避難後に、イノシシや小動物が入り込んで家を荒らしてしまったこと。集落の中心街は家並みが解体され更地になりつつあるが、代々受け継いできた家を解体するにも苦渋が伴い判断できないでいることなどを切々と訴えられました。石井ひろみさんは、国の原発推進の方針転換に憤り、「このままでは原発事故被害がなかったことにされる」と、国と東京電力の責任を問う「ふるさとを返せ、津島原発訴訟」原告団の副団長を務めているとのこと。

紺野則夫会長も津島出身です。原発事故当時は町役場の保険課長に就き津島支所に勤務。避難者の受け入れなど、事故後の対応に追われました。事故直後に浪江町民の避難場所となった津島には8千~1万1千人が避難し、診療所に長蛇の列となった町民のお世話をしたことなど話しました。(紺野さん自身の事故当時の自宅は津波で流されてしまったが…。)

また、当時、診療所で看護師として働いていた今野千代さんも、涙ながらに当時の状況を語ってくださいました。

津島は富岡街道筋にある集落で、浪江町中心街から西へ20~35キロの地点にあります。人里離れた山の中にあり戦後に入植した開拓者が多いそうです。山を切り開き耕地を拡げ、木を植え育て、田畑を耕し、牧畜や養鶏、きのこの栽培などで生業を立てながら、脈々と続く歴史や文化を育ててきた14,000人の「結の里」です。「元に戻せ、故郷を返せ、人生を返せ」との住民の訴えの重みははかりしれません。国や東電の「大罪の証し」を、視察者皆が目のあたりにしました。

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